七月の雨が窓を叩いた夜

梅雨明け宣言が出た翌日に、また雨が戻ってきた。そういう夜だったんです。

時刻は夜の9時を少し回ったころ。自分はキッチンのシンクに両手をついて、なんとなく窓の外を見ていた。ガラスの向こうを雨粒がつーっと斜めに流れていく。仕事のメールに返信し終えて、夕食の片付けも済んで、やることが切れた、あの瞬間だった。

以前なら、その「やることが切れた瞬間」が、缶ビールを冷蔵庫から出す合図だった。500mlを1本、2本。それが10年以上続いた自分の夜のルーティンで、感情が何であれ、ビールを開ける音が「今日はここまで」というサインみたいになっていた。

断酒して3年。今の自分にはそのサインがない。だから、感情はどこにも流れていかず、シンクの前に立ったまま、ただそこに溜まっていた。

なんだか泣きそうだ、と思った。理由はよくわからなかった。

シラフでいると、感情に「名前」がつく前に来る

お酒がフタをしていたもの

断酒を始めた最初の数ヶ月、自分が一番驚いたのは感情が荒れることではなく、感情が「鮮明になる」ことだった。怒りがはっきり怒りに見えるようになり、不安がちゃんと不安の形をして立ち上がってくる。ビールを飲んでいた頃は、そういうものが全部うっすらとぼやけていた気がする。ぼやけていたから、自分でも気づかなかった。

あの雨の夜の「泣きそう」も、そういう類のものだったと、今は思う。特定の出来事に対する感情ではなく、その日の疲れとか、翌日の予定への漠然とした重さとか、そういうものが混ざって、ただ「波」として来た。お酒があった頃は、その波が来る前に飲んで、気づかないまま眠っていたんだと気づきました。

波が来たとき、自分はどうしたか

シンクから手を離して、ソファに座った。何かをしようとは思わなかった。ただ座って、雨の音を聞いた。

断酒の初期、感情の波が来るたびに「何かをしなければ」と思っていた時期があった。散歩する、本を読む、日記を書く。どれも悪くはないけれど、その夜の自分には、何もしないということが、一番正直な選択だった。

波は、思ったより早く引いた。10分か、15分か。時計を見ていなかったから正確にはわからない。でも、雨の音だけが部屋に満ちていた時間が、妙に長く、そして静かに感じられたのは確かだった。

感情の波は「敵」じゃなかった

飲んでいた頃に見えなかったこと

断酒を続けていると、感情の扱い方が少しずつ変わってくる、と自分は感じている。正確に言うと、「変わる」というより「見えるようになる」という感覚に近い。

飲んでいた頃の自分は、感情を処理しているつもりだった。「今日は疲れた、飲もう」「仕事がうまくいかなかった、飲もう」。それで解決した気になっていたけれど、翌朝になると同じ重さがまた戻ってくる。ビールは感情を消していたんじゃなくて、翌日まで先送りしていただけだったんです。

シラフでいると、感情は来たその日に来て、その日のうちに一応のかたちを見せる。それが正直なところ、最初は疲れる作業だった。でも今は、そのほうが翌朝が軽い。波が来て、引いて、何かが残る。残ったものを、次の日の自分が少し引き受けられる気がする。

波を「見届ける」という感覚

あの雨の夜に自分が学んだのは、感情の波を「どうにかしよう」と思わずに、ただ見届けることができる、ということだった。

波を消そうとすると、何かに頼りたくなる。以前のビールがそうだったように。でも、波はどんな大きさであっても、必ず引く。自分の場合、それを体で知るまでに1年以上かかった。

断酒は「飲まない」という行動の話だと思っていたけれど、続けてみると、感情とどう付き合うかを、一から学び直す時間でもあったんです。お酒なしで感情を迎えることは、最初は怖かった。でも今は、波が来ることを以前ほど恐れていない。来たら来た、で座っていられる。

翌朝、雨は上がっていた

ソファでうとうとして、気づいたら11時を過ぎていた。雨の音はもう聞こえなかった。ベランダのタイルが少し光っていて、どこかで蝉が鳴いている。梅雨明けの空気が戻ってきたのか、窓を少し開けると、思ったより涼しかった。

泣いたわけでも、何かを解決したわけでもない。でも、昨夜の波はもうそこにはなかった。自分はコップに水を入れて、一口飲んで、ベッドに向かった。

断酒を選んでよかったと思う瞬間は、大きなことよりも、こういう小さな夜の積み重ねの中にある、と気づきました。感情を飲み込まずに、感情と一緒に夜を越えていく。それが今の自分の夜の過ごし方です。

波は来る。でも波は、必ず引く。飲まない夜が教えてくれた、それだけのことが、今の自分の土台になっている。

※本記事は一般情報であり医療的助言ではありません。心身の不調や依存に関するご相談は、医療機関や専門家にご相談ください。